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[徳政一揆の正当性]
 アパートを借りると敷金がかかる。礼金は取引の手数料みたいなものとして、敷金とは何か。考えてみると、現代のかすかな民俗・フォークロアのなごりのようだ。
 例えば、お花見の場所取りにシートを敷く。敷くということには、慣習法みたいな感じが残っている。敷いたところは一種の治外法権、あるいは、今日の合理主義・功利主義からはありえないが、無主の空間となるような、近・現代と異なる法感覚。俗説に、ハンカチ一枚でも敷いてあれば性的な暴行が法的に問われないという話があるけれど、これは、当事者間の合意の捏造かどうかというだけでなく、そういう俗説があるということ自体が、敷いてあるところでしていることには法も関知できないというような習俗的なものがあったしるしだと思われる。
 また、質屋のシチはシキからきているらしい。鎌倉期など中世の研究によると、当時は売買と所有権の関係が今とは違っていた。質の感覚には、そのあとがとどめられているようだ。質に入れるというのは、質草を担保に金を借りているのか、それとも質屋の買取りになるのか。昔の小説には、貧乏で家財を質に入れたり出したりしていることがよく書かれてある。質に入れた物はまだどこか自分の物であるような気持ちが残っている。多分、売ったけれど本当は自分の物で取り戻すのが本来のあり方だというような、例えば一種の身代わりだというような、今とは違う売買観が中世にはあって、それが質草の所有権の感覚にのこっている。
 現代の敷金は貸借関係だが、家を借りる側が質屋のような立場で、家主は家を借家人に渡してお金を受け取る。それが敷金だ。家を返す際は、質屋にお金を入れて質草を請け出すように、家主は敷金を戻して引き換えに家を取り返す。
 徳政令は幕府権力の開き直りかもしれないが、徳政は、本来は自分の物なのに取られているというような、今日みれば合理的でない感情であるような法経済の習俗に基く、返還要求だったといえるのでは。さらに、一揆を起こすほどの人々にとっては、理屈上はともかく収奪されていたには違いないので、ある意味健全な経済感覚で徳政を要求したと考えられる。
 今日のグローバル・スタンダードとは異なる中世経済があった。スタンダードというが、どうしてスタンダードなのか。敷金という言葉や敷金という慣行から、消されてきた別の経済の痕跡を想像できる。




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[言語学からの詩学]
 20世紀のアヴァンギャルド芸術としての詩は、言葉の慣習的な用法や言語芸術の規範に対する破壊、実験であることがあった。そういう詩の言葉は、伝えている意味だけでなく、媒介であった言語自体を意識させるものだった。詩の創造が、奇想や破格の表現という以上に、いわゆる意味が分からない表現に近付く。意味の分からなさは、語と語のつながれ方、又は、語の選ばれ方、による。それら言語表現の秩序によって人間は理性的な存在とみなされる。20世紀には、意味の分からない言語表現、無意識的な言語表現も詩であり、言語学の対象に入る。そこには人間観の危機があった。言語学は、人間観のイデオロギーから自立するかのように、形式的な分析を体系化する構造主義として発達した。 R.ヤコブソンは言語学としての詩学を構想した。彼は東欧の出身で、フレーブニコフ、マヤコフスキー、パステルナークらのロシア・アヴァンギャルドの詩を愛読していた。その体験・愛着があるからこそ、形式的であっても無味乾燥でない詩学をつくることができたのだ。
 フロイトは、無意識を研究するために、言い間違いや言葉の機知を研究した。それらの言葉の分析から、それらの言葉にあらわれる無意識のはたらきと、比喩などの詩的な修辞のメカニズムに共通性が見出されるようになった。
 また、柳田國男や折口信夫の民俗学の中に、方言の遷移とか語源探究のような、言葉から遡ろうとする研究態度がある。そこには直観性もあり、例えばある言葉がもともとこういう意味だったという研究があるとしても、具体的にどの時代にどの地域でそういう意味だったか、外的に実証される歴史の研究というより、いわば、その言葉の無意識的な意味の層の解読、内的に非歴史的に遡行する原型的なものの研究なのだ。だから例えば、民俗学上の多義性のある言葉を詩作に用いることができると、強度があるというか価値のある言葉になる。ある種の民俗学や人類学は、神話や歴史や文学が総合された詩学のようなものだ。
 日本語圏に限ってみると、言語とは何かからていねいに積み上げて詩の理論を体系的に構築しているような人は、吉本隆明さんくらいしか見当たらないように思える。それは、ヤコブソンにロシア・アヴァンギャルドがあったように、「荒地」に代表される戦後詩があったからであろう。ここでいう戦後とは、相対的に多くの人にとって、詩に充実した意味を込めることのできた時代だった。
 言語学と詩学に関連して記号学や記号論がある。それによると詩の可能性は有望のはずだったが、一時期のブームのように消費されてしまった。




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[ヴィジョン]
 ヴィジョン(幻視)とは幻覚ではなく想像力で視ることだ、あるW.ブレイクの研究者がそう述べている。示唆的なコメントだ。幻覚は一方的に受動的に視えてしまう、意識や自我水準の病的といえるような低下による体験だ。想像力で視るということは、それと異なる。強迫的というより、自分がニュートラルで、自由に視えてくる感じだ。
 知覚の扉が洗い清められるとき、すべてはありのままの姿で現れるだろう、果てしなく・・・というW.ブレイクの詩句から、ザ・ドアーズというロックグループが名付けられた。ドラッグカルチャーは社会に組み込まれて共同体のヴィジョンを更新し続けることもある。しかし、無意識的なものをヴィジョンまで引き上げる生命の志向性みたいなものがないと、中毒症状の幻覚まで退行してしまう。  人が空想することはそれほど自由でなく、所与の環境の内部からほとんど出られない。もっと空想的な空想のために空想力批判を!それが芸術だ。
 昨年末新聞のコラムで、池内紀さんがカントの想像力が優れていたことを書いていた。想像力によって、行ったこともない土地のことを、住んでいた土地のことのように描写できたのだそうだ。晩年のカントには、世界の永久平和というヴィジョンがあった。想像力によって、ぼんやりした理想主義的な空想でない、ハイ・ファイなヴィジョンを視ることができた。それを言語化する能力や修練も必要かもしれないが。
 ドラッグカルチャー的なアート、サウンドや視覚イメージ、身体の技法、しるし・徴候・比喩であるような言葉、一般的なことなのに自分に関係あることのように受け取れる言葉。それらを通じてヴィジョンがもたらされたり、あらわせたりすることがある。
 最も身近なヴィジョンは睡眠時に視る夢だ。睡眠中の脳は外部の知覚入力が限られている代わりに、内部の記憶が感情や思考で変換されながら感覚領域に入力されていて、それが夢として経験される。例えば、意識されなくても心臓はいつでも動いているように、意識されなくても脳はいつでも思っている。眠ればそれが夢としてあらわれる。夢はたいてい目覚めて活動している時に気にしていることの変奏のような、いわば浅いことが多い。しかし、様々な深さの層が貫かれているらしい夢もある。夢の追想は、やり方によって深められるようだ。古代の人達は夢を語り合うこともあり、それは共同体的なヴィジョンとなった。夢を思い出して記述することを続けるのは、詩作の練習になるかもしれない。




原牧生(voice - poetry - performance)
現代美術、詩、ボイスパフォーマンスなどを学び、障害者自立支援の仕事、ボランティア、アート活動などにも関わってきた。1963年生まれ。 2003年より河崎純とのユニット 打落水狗 DA LUO SHUI GOU で活動。2006年より「詩の通路」の企画・活動をしている。

(ここまで 2008年1月)




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