No.5

2006年7月15日 発行




「詩の通路・ゼミ」ダイジェスト 第4・5・6・7・8・9回


「詩の通路・ゼミ」で取ったメモを元に、いくつかの話題、問題の抽出を試みた。

文責は筆者にある。



第4回(3月30日)

 「詩の通路・ゼミ」では、特に初参加の方には、その人のしていることや考えていることを話していただいている。今回は、まず、シアターXの俳優養成学校の一期生の参加者からお話をきいた。台詞の音楽性、声と体をつなげることについて色々話された。例えば、台詞のやり取りがあるとして、その言葉を擬音などの音声にかえて、同じやり取りをやってみる、それからまた言葉に戻す、そういう練習がある。それによって、言葉のやり取りが、声・音からフィードバックされて活性化することを確かめられる。また、街角で話されている会話をそのまま録音し、そのテープを起して会話の台本を作り、それをその通りやってみる。すると、それは元の録音ほど面白くならない。テープを聞くともっとダイナミックさがあり、それは再現できにくいようだ。

 それから今回は、J.ケージの声楽作品「アリア」を取り上げCDを聴いた。ケージは、この作品を五線譜ではなくグラフィックな楽譜に書いている。これは、再現されるべき音楽が作曲者の頭の中にできているという作品とは違っている。楽譜の読み方・歌い方は、歌い手によって全く違っていいし、やる度ごとに違っていいからだ。ただ、この作品は、特定の歌手による初演を想定して作られていた。その歌手についてのイメージは、それなりにケージの頭の中にあったと思われる。この作品は、異なる十通りの歌い方を任意に決めて歌い分けるように指定されている。あるCDでは、一人のソプラノ歌手が、一人で十通りの歌い方を歌い分けた。別のCDは、七人編成のアンサンブルで、 歌い方の異なる部分を異なる人に振り分けていた。

 その人の頭の中にできていなくても、コンピュータの中に音楽ができているなら、その人はコンピュータで作曲したことになる。コンピュータと電子楽器が直接つながれれば、演奏する人間のために楽譜を書く必要はなくなる。インストラクションに関わるコミュニケーションもないし、何であれ他人と共同でやることにつきものの面倒さもなく、自己完結的に音楽ができる。また一方、コンピュータのソフトを作るという立場もある。作品を作るのではなく、作品の作り方を作るということになる。それは、他の人のために作るということによって、間接的に他者との関係を志向しているのかもしれない。



第5回(4月29日)

 4月27日に、詩の通路・プロデュース公演第1回があった。まず、その感想などを話題にした。また、今回初めて参加された方から、活動歴や問題意識など話していただいた。公演については、教育劇の上演は分かりやすく観客の若い人達も楽しめるものだったようだ。これまでブレヒトをあまり知らなかった人にとっては、ブレヒトの考えを全体的にとらえられたわけではなかったかもしれないが、その人なりに教育劇という演劇のあり方に興味をもつことになった。また、従来のアングラ劇が左翼的なブレヒト観に反発していた影響からブレヒトにそれほど親しんでいなかった人にとっても、ブレヒト劇が見直されることになった。この上演に音楽は深くからんでいたが、俳優達の演技に対して、演奏者は一つにまとまっていくというより散らばった方向性を見せていたという指摘もあった。舞台は、舞台面の左右と後ろがコの字型にややせり上がっていて、俳優の演技スペースを囲んでいるようなかたちになっていた。空間的に分離された演奏者のある種の無関心さをあえて見せることが意図でもあった。ブレヒトの教育劇は、教材劇ともいわれるように、稽古期間中あるいは上演後に時間を取って、討論するためのものだったと考えられる。今回の上演では、そういう討論が本来はあることを観客に示すような、インタヴュー形式の演出があった。

 教育劇はディスカッションを促す仕掛けだったかもしれないが、 それぞれが自分の考えをその場で上手く話し合おうとしても、かえってわざとらしくなったりする。その場でディスカッションにならなくても、心の中にざわめきが生じること、何か話したくなること、言葉になろうとする泡立ちのあること、それは詩ではないかという発言もあり、示唆的に思われた。そこから、インプロヴィゼーションは、教育劇のように設定された環境での、そういうざわめきかもしれないということも考えられた。

 それから、教育劇での音楽について、アヴァンギャルドに対する大衆性といった観点などから、分かりやすさについて多少考えてみた。実際のこととしては、俳優の身体という条件と作曲されるメロディと相関することなどが確認された。

 今回の参加者の一人は、雑居ビルの一室をフリースペースとして99年まで運営されていた。そこは、深夜までのカフェにしたりして、色々な人の出会える場所とされていたそうだ。ただ、今振り返ると、出会った後に何をするか、何をつくるかといったヴィジョンが足りなかったそうだ。そこだけでなく、そこのヒントになっていたカフェなどでも、たむろしてなかなかその先に行けない人は少なくなかったようだ。



第6回(5月11日)

 前回と異なる参加者もあり、まず、プロデュース公演第1回について、前回と別の観点から話し合った。公演は、ワイル、デッサウ、アイスラーらの作曲したブレヒトソングを新たな編成・解釈で歌う試みのコンサート、詩と音楽のオリジナル作品、およびブレヒトの教育劇が組み合わされたものだ。教育劇は、ブレヒトをそのままやるという方針で、上演だけでなく、問題提起について一緒にしゃべったような空気をつくるインタビューなどがなされた。「詩の通路」の公演として、言葉と音楽についてどういう考えだったのかよく分からなかったという意見もあった。ブレヒトソングの方は、音楽として洗練される方向に傾いたようだった。上演時間が当初の予定より結果的に30分以上長くなったので、構成について疑問も出された。公演全体をみる視点は作曲家一人だったが、演出家も関われたらよかったのかもしれないという意見もあった。

 演劇を観ることからディスカッションになるとはどういうことかという発言も出た。また、アフタートークで解釈されるとそこで理解してしまうということに対して、むしろディスカッションの錯覚をつくるということにも関心がもたれた。ディスカッション以前でも、あるいは、その場でディスカッションするのではなくても、後への残し方があるのではないか、内省を誘発させるとか、個人の行動を引き起こすことになるとか、そういう仕掛けをつくるということも考えられた。

 それから、公演の話とは別に、インストラクションのテーマに戻り、CDを聴きながら話を進めた。まず、ブライアン・ファニホウの作曲した非常に細かい指定で難しい演奏技術の要求されるコントラバス独奏曲の楽譜があり、それを参考に見ながらその演奏を聴いた。 それと対比的に、楽譜のない即興演奏の例を聴いた。また、他の人の即興演奏を楽譜化して作品にする作曲家の例も聴いてみた。それから、施設での音楽療法という枠組みでも、精彩ある即興のセッションがなされうるという例を取り上げた。この事例は即興演奏のマニュアルのような本になっていて、CDと共に出版されている。これらの実例は、行為を作品にする、あるいは作品から行為をひき出すインストラクションのあり方、媒体などを様々に示していると考えられる。

 最後に、ゼミの対象者として特に俳優があげられていることが話題になった。この場合、俳優は自己表現したい人というより自己を媒介にできる人のことではないかという意見も出た。


第7回(5月20日)

 前回に続き、実験音楽や即興演奏を、専門家的な音楽の枠組みと異なるあり方で試みている例から考え始めた。また、聴くということに関連して、ディープリスニングという概念を提唱したポーリン・オリヴェロスのCDを聴いてみた。楽器は、純正調に改造されたアコーディオンが使われていた。平均律とは異なる響きで、転調とか和声進行のように動いていく感じがないのかもしれない。そのため、聴くということが、内的に深まっていくような意識体験になりやすいのかもしれない。

 声楽をやっている方が参加されていたので、問題意識など話していただいた。何のためにうたをやるのかについて、自分にとっても聴く人にとっても何かが変わるようにと考えているとのことだった。また、日本語の歌曲では、日本語とピアノの音は合わないように感じているということだった。その方のレパートリーのフランス近現代歌曲では、たいてい詩が先にあって作曲されている。詩の音楽性ということも、あらためて考えさせられる。

 日本の現代音楽では、合唱曲や合唱団にシアターピース的な試みがあり、そういう合唱団はしばしばメンバーがセミプロ的だった。 セミプロとしては、やや前の時代には、労働者の団体の合唱団やブラスバンドがあった。CDから、アイスラー作曲の労働歌、ブレヒト劇「母」からの合唱を聴いてみた。

 プロ化しない音楽活動の方向性として、即興演奏のグループもあった。例えば、コーネリアス・カーデューらのスクラッチ・オーケストラのいくつかの作品は、文章のインストラクションやグラフィックの楽譜から演奏がなされる。また、コンダクションの例もCDで聴いた。一人の指揮者が複数の演奏者に即興的に合図を出し、合図はいくつかの決め事になっていて、演奏者はそれに基いて即興的に演奏する。コンダクションは指揮とは異なり、コンダクションする人は指揮者のように自分の音楽をつくろうとするのではない。

 このような、集団の芸術活動と意思決定の問題も少し話し合った。議論というプロセスから、集団の意思決定になるかどうかには、飛躍がある。むしろ、議論というより議論を誘発するという発想が、無理がないかもしれない。音楽活動によって演奏者あるいは受け手の意思決定に関わることは考えられるし、そこで議論するということもある。としても、その方法論つまり議論のあり方、議論とは何なのかは、自明ではない。



第8回(6月8日)

 今回も、初めての参加者があった。過日、他のイベントでこのゼミのメンバーと出会った方だった。インターネットの自分のサイトに小説や批評を書いていて、サブカルチャーと政治とを横断したい考えだそうだ。

 また、シアターXに、レパートリー劇場付属演劇研究所というものがあり、そこに所属している方も参加されていた。その研究所は、シアターXの俳優養成学校を前身としている。そこで今取り組んでいることや、その方の俳優観などをうかがった。研究所は、 教師が生徒に教える学校とは違って、例えば、両手が両足にピアノを教えるようなものだそうだ。そういう言い方に、その方の、個人や個体を超えた生命観みたいな感覚に基くらしい俳優のイメージがうかがわれる。レパートリーの候補作には、「かもめのジョナサン」「青い鳥」「よだかの星」などが挙がっているそうだ。

 それから、詩の通路プロデュース公演のことを、初めての方への説明も兼ねて、話題とした。第3回打落水狗公演について、どういう条件でどのようにつくっていくか、どういうものをつくるか、今回はうたをどのようにとらえるか、また、共演予定のユニットがあるが、それにはどのようなコンセプトがあるか、などが話された。

 参考の音源として、高橋悠治さん他の音楽家による演奏・詩の朗読のCDを聴いた。詩は、比較的、言葉の意味伝達が直接的なもので、演奏は、ふわふわした幽明境のような洗練された音であったり、東南アジアの音楽の旋律の断片が漂う感じであったりした。言葉と音楽は、どちらも生死の不確定さをあらわしているようにおもわれたが、形式としては、やや別々になっているような感じもした。

 その後、うたについて何人かの意見が交わされ、心のざわめきであるとか、複数でうたえるものであるとか、身体の一種の記憶術でもあったとか、色々話された。うたうということをやっている状況のライブ性自体が、むしろ、うたなのではないかという発想も出た。



第9回(7月1日)

 今回初参加の方がCDを持参され、それらを聴きながら話し合った。まず、その方から、人の属性をカテゴリー化してしまうことについて話された。例えば、日常会話の中で、自分が好きな音楽の話をすると、相手が、ではこういう音楽も好きだろうと、同じジャンルとみなされているものを話題に出してくる。しかし、それはちょっと違う、ということがある。自分が好きなもの、あるいは指向性は、ジャンル化されたものとは一致しない。にも関わらず、あの人はこういう人だからと、人の属性をパタン化してとらえ、逆にそのパタンに当てはめて、その人を判断することがありがちになる。偏見のカテゴライズから差別の生じてくることもある。カテゴライズの根拠を見直すための、メディアリテラシーやセルフエデュケーションへの関心なども話された。

 一方、インターネットのアマゾンの検索のことも話題に出た。ある本を捜すと、別の本が次々紹介される。ある本を買った人はこういう本も買っているといった購買傾向のデータがぼう大に集積されているらしく、そこから逆に、その人が欲しいと思いそうなものを教えられることになる。実際それで買ってしまう人も少なくないようだ。

 持参されたCD二枚は、西岡たかし、友川かずき、のもので、販売の分類上はフォークかもしれない。だが、各々の各々らしさは、フォークというジャンル名だけではあらわしきれない。両者互いに違ってもいる。その各々らしさは個別の特徴だ。そして、ジャンル化されないことによって、そのあり方・聴かれ方は、フォークというより、うたとして開かれているようにも思える。

 例えばブラジルの都市部で生まれてくる音楽が、世界的に広く愛好され、うたとして残ってくるということがある。そういううたは、社会から孤立した個人のうたとは異なる。いわば、うたが社会的に、つまり、その社会の多くの人にとってもうたであるように、つくられている。

 例えば、友川かずきさんのうたは、独特の切迫感のある声でうたわれている。そこにはなまりもあるが、それは故郷の土着性から切り離された、大都市の労働者街の単独者的な声だと思える。また、二十世紀前半の下層階級を指す、細民を背後に連想するとか、友川さんみたいな人が出てきてその当時は共感する人がそれなりに多くいたということが興味深いという発言もあった。

 二十世紀中頃のトーキング・ブルースや、ボブ・ディランがフォークを収集していたことも話題に出た。ディランの声の背景に色んな人の声があると本に書いた人もいたそうだ。

 それから、「詩の通路」のパンフレットみたいな物を作るのはどうかということについて、少し話し合った。通路という言葉について、人それぞれのイメージや解釈を話したりした。すでにあるのにみえていないとか、目的地が決まっていないプロセス性であるなど。


原牧生(打落水狗 DA LUO SHUI GOU)





9月19日 詩の通路・プロデュース公演 第3回(打落水狗)にむけて


 詩の通路ゼミでは、インストラクションについてが、一つの大きなテーマになっていた。おもえば私自身、作曲家、演奏家、即興演奏家、または観客という立場で、主に東京という限定された場所ではあるが、表現者の表現欲、エゴイズム、コミュニティの形成への理想、などの渦のなかで過ごしてきたのだ。そのなかで芸術や芸能、信仰やビジネスという枠のなかに収斂されない表現とはどんなものかと考えながら現在にいたった。なぜそんなことを考えていたかといえば、人間(人生)を信じるということと、芸術や芸能、信仰やビジネスがなかなかリアルに結びつかない日常のなかで生活しているからであろう。そこで、留保のない現実を生々しく感じるために即興演奏を続けてみた。ブレヒトの教育劇のアクチュアリティについて取り組んでみた。敗北的に語られることのおおい谷川雁の「10代の会」を意識しながら、10代の仲間たちと小さな演劇やパフォーマンスを何本かつくってみた。それらの連鎖のなかで学習してきたエッセンスを紙に書くことをあえて作曲とよんでみる。楽譜を音楽作品としての表現のためではなく、インストラクティブに機能させてみたいとつよく思うようになったからだ。

 美術家の岡崎乾二郎さんがある雑誌の対談中、フルクサスやジョン・ケージについて語っているところで、それらの教育的性格をうまくまとめていた。「フルクサスにはどこか教育的演習ってかんじがある。そもそもフルクサスの方法論の中心のインストラクションという概念が、課題もしくは指示を与え、それをキッカケにオリジナルな出来事を発生させるという、それこそ教育的なものだったでしょう。本質的な美術や音楽としては扱われず、とりあえず基礎的な発想演習としては認めるという感じがある。」「反芸術は、フォーマルに形式や手法を展開してゆく純粋芸術的な流れに対立していると思われてきたけど対立なんか全然してなくて、むしろ形式の基礎を固める、教育も含めていろんな意味で芸術の下部構造を固める装置になっていたのが今頃(90年代前半)見えてきて、なんか一杯食わされたっていう感じがするんです」。昨今のワークショップの流行や、セルフエデュケーションという概念のみなもともこのあたりにあるのだろう。しかしいま、自己表現や個人の生活を越えて、その先に還元されるべき私達の社会はいったいどのように意識され営まれるのであろうか。現実を認識する程にニヒリスティックになり、打破する方法は生や死や歌や踊りに対して逆説的なものになる。たとえ悪夢でも昨日の夜見た夢をあっけらかんと語り合う場はないものだろうか。

 9月の詩の通路プロデュース公演ではやはりこういった視点から、オリジナルな出来事を発生させてみたい。出来事は表現者や観客の即興性や能動性にささえられたものであろう。たわいもないが重層的で複雑な日常にほんの少しの演出や編集を加え、希薄になった生や死を1時間程の連続する生命体の「流れ」のなかで感じてみたい。

 「まずしいものの音楽」をテーマに原牧生の書いた詩「ものさしのうた」をもとに河崎が作曲した即興性の高い曲を演奏するアンサンブルと朗読や歌(トロンボーン×3、チェロ、コントラバス、打落水狗ほか)、躍動的な韓国の打楽器の演奏(チェ・ジェチョル from 木蓮)、あるダンサーのために確信犯的に描写的につくられた電子音響をもとに、それを生楽器や音具を用いて演奏するアンサンブル(NEGA 高橋琢哉ほか)、の同時演奏を試みたいとおもう。


2006年7月 河崎純

ニュース・レター

詩の通路いまからここでharamakio PLG震える石砂の舞台 | ニュース・レター