No.4

2006年7月5日 発行




芸能的なものの未来形 ─巻上公一さんの仕事から─


 「詩の通路」は、文化の仕切りを少しつけかえる運動のつもりでやっている。巻上さんの公演にあたり、巻上さんの仕事を「詩の通路」の観点で考えてみたい。

 例えば、巻上さんの「場所」は、湯河原から東京、トゥバ、NY、etc. へ等価に移動する。そういう地図は、文化の測量の仕方を変える。

 芸能は、歴史的におもえば、共同体があってその内部や外部があるところでおこなわれていた。今日では、国家に抗する社会としての先住民的な共同体はマイノリティだ。共同体は国家と資本主義に吸収され、芸能はワールドミュージックみたいになって市場地図に位置付けられる。しかし、現地へ行き、うたう身体は、情報に還元されない別の通路だ。

 商品化されたものから芸能的なものをすくい出すために、ポピュラーということが手がかりに考えられる。一般の人々に受けいれられるものをポピュラーというのだろうが、それは売れるということと同じではない。メジャーということは、現代的な商業主義的な感じがする。ポピュラーなものは、大衆とか民衆などの概念の成立した近代以降のものだとしても、フォークロアだったものの共有のされ方が感情的にのこっている。それが今では、商業主義によって過去の懐かしげなものにされているように思える。

 ところで、巻上さんのポピュラーのセンスはアヴァンギャルドのセンスと両義的でもあり、引っ張り合っている。そのため、ポピュラーでありながらマイナーになっている面もあるのかもしれないが、それゆえにポピュラーなものの本質がまもられているのではないか。一方、歴史の飽和した時代の人々は、アヴァンギャルドという前向きの歴史意識のセンスを、もはやリアルに感じられない。そこでむしろ、ポピュラー/アヴァンギャルドという二項矛盾は、おとなでありかつこどもになるという二項矛盾へ、ずれつつだぶっていく。アヴァンギャルドの制度逸脱性は、もしかしたら、こども性としてアクチュアルになるのかもしれない。

 巻上さんは、一般向けのヴォイスパフォーマンスの講座を継続してひらいている。そこで、ゆるやかではあるが小集団を形成し、集団での即興、作品づくり、公演をおこなっている。伝統文化の唱法などはおとなっぽいけれど、それでも、口唇的なことを真剣にやるということには、こどもっぽいおかしさがある。そういうことをやっているところでは、専門家/非専門家の区別は絶対的にならない。そして、音楽とも演劇とも分類しがたいもの、即興でもあるが型でもあるようなもの、古くて新しいものが、つくられうるように思える。

 去る6月10日、巻上さんはアルタイからボロット・バイルシェフさんを迎え、公演した。ボロットさんの発声を聴いていると、他の喉歌と呼ばれるものもそうかもしれないが、発散し拡張しようとする歌唱とは異なる感じをうける。例えばオペラの圧倒するような発声は、近代ブルジョワの、外部を征圧してでも拡張をもとめるような文化における、その純度を高めた芸術ではないかと思える。ボロットさんの発声は、内包的というか、内部でひろがっていくような感じだ。声の出し方が、どのような生をもとめるか、文化の価値観をあらわしている。芸能的なものが、生態系的な価値観を実践的に伝えてくれたりする。

 シアターXでのこのたびの公演、わけても「シークレット・カンフー・シアター」は、まさに伝承と創造の二項対立をのりこえる作品だ。「マキガミックテアトリック」は、新たなシアターピースとして、芸能的なものの未来形へ続く道しるべになるものと期待されるのだ。


原牧生(打落水狗 DA LUO SHUI GOU)

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