Accountability  回想の詩の通路


記憶と情動


 詩の通路は、両国にある劇場シアターXでの企画として始められた。河崎と原はそれ以前から共同作業をしていて、広くとらえた「うた」をテーマの一つとしていた。うたをうたうことも聴くことも思い出す(こころの中でうたう)ことも記憶と情動を動かす。


 千年以上前、紀貫之は古今集の序文に、(うたは)ちからをもいれずしてあめつちをうごかし・・・と書いている。力の原理と異なる変化の原理が考えられていた。


 うたとともに、記憶の喪失感にさそわれることがある。記憶とは傷のようなものらしい。刻まれた跡。書くということも、引っかくことのように傷を付けている。生体の記憶はホログラム的だという研究がある。ホログラムはホログラフィーの記憶媒体だが、ホログラムを半分にしてもホログラフィーの像は半分にならず全体像が浮かぶ。だが解像度の低下というのか、全体に像がぼんやりする。そのように記憶はぼんやりしてくる。パターン的なのだ。記憶と情動をリリースする、メロディの、韻律の声の、パターンがある。



即興と社会


 詩の通路という企画は、三つの次元から考えられていた。(1)コンセプト。概念の言語化。(2)コンテンツ。イベントの企画など。(3)ファンクション。組織的非組織とメディア機能。これには旧バージョンがあり、それは、(1)理念。(2)活動内容。(3)組織。であった。これを旧タイプとみなしてあらためた。理念なき企画や組織論なきプロジェクトへの反省から。


 即興自体にルールはないが、即興するための設定はある。複数の人の即興には、一種の社会契約といえるものがはたらいている。それは実際には互いの気配りみたいなものかもしれないにせよ。


 2006年から2007年にかけて、詩の通路の集まりをゼミと称していた。学術的でもないのにゼミということにしたのは、例えばワークショップは参加者が受身の生徒役にとどまりやすいと思われたからだ。創作的な集まりで、かつ、参加者も研究会のように考える、セルフエデュケーション的なイメージで始めてみた。アカデミックな制度の外部で行なわれた自主ゼミのような。しかし、本来セルフエデュケーションは、当事者主権をつよめるための運動だ。このゼミは何の当事者になるのかはっきりしないので、共通の目的がない。目的性の仮構はある。文脈やコンセプトにおいて。それぞれの人のモチベーションは仮構の目的性とずれるから、あらたなプロセスが生じる。



言語化と行動化


 アカウンタビリティという言葉は、説明責任という意味で使われることが多い。因果関係、意味付け、出来事のナラティブ(語り)が、社会的な傷を修復することもある。やり直しになる。そのためのアカウンタビリティは、言わされる責任だけでなく、言える能力でもある。言えること、言うべきこと、言いたいことは、意識のレベルと意識の知らないレベルがある。意識のレベルで言わされている限り、既成の言葉やストーリーが反復される。言語化はそういう限界がある。語る主体が知っているとみなされることを私たちの意識は知らない。それを語るのは無意識で、それに語らせるのは行動だ。もののはずみのこころ、それはパフォーマンスともいえるだろう。


 ポシビリティのなさ、つまり無力さを否認しても反動的になるだけだ。つかれていなければ都市では生きられない。くたびれていることと取りつかれていることは、そううつのような両面性だ。日々、存在の消耗戦争にさらされている、人間は、もろくなっている。人間どうしの関係は、こわれる手前でゆるくとどまっている、浮遊感のまま。存在の貧しさだ、今日の芸術も。可能性のなさ。なさのうちでも、可能性が起こる可能性のなさを決められない。プロバビリティには依存していられない、回想は未来のうめあわせだ。


原牧生

詩の通路